構造生物 Vol.1 No.1 1995年9月発行

資料3

シンクロトロン放射光と薬物設計

シンクロトロン放射光蛋白結晶構造解析産業利用懇談会

 

 最近、さまざまな病態の原因となる物質が分子レベルで同定され戸ようになり、そのような物質の構造情報を利用して薬物設計を行なおうという、いわゆるrational drug designというアプローチが試みられている。その中の最も直接的な方法として、阻害剤とその標的物質(その多くはタンパク質であるが)との複合体のX線結晶構造解析を行ない、その結果に基づいて新たな阻害剤を設計するというstructure-based drug designが注目されており、ここ2〜3年の間に、欧米の製薬企業を中心にその成功例も報告され始めている。この方法ではタンパク質一阻害剤の結合様式を確認しながら、より親和性が高くなるように阻害剤の修飾、改変を行なっていくので、一旦このような系が確率されれば二非常に効率の良い薬物設計が可能になる。従来、製薬企業に於いて、このようなアプローチが敬遠されがちであった原因の一つは、タンパク質のX線結晶構造解析に時間がかかり過ぎる点にあった。しかし、遺伝子工学技術の進歩により目的のタンパク質が比較的容易に得られるようになったことや、タンパク質の結晶化について過去の経験がかなり蓄積され、結晶化条件の検索がかねり迅速になりつつあること、また、放射光の利用も含めたX線回折データ測定装置及び計算機の進歩、そして、解析技術の進歩とソフトウエアの整備などの要因により、構造解析に要する時間が大きく削減され、薬物開発のスピードに十分間に合うようになりつつある現在、状況はかなり変化したと言える。生理的に重要な働きをしているタンパク質の単離がますます増大すると予想されるので、今や、このようなstructure-based drug designは非常に有力な薬物設計の一つの方法になりつつある。以下に、薬物設計におけるX線結晶構造解析の関わり方についていくつか紹介する。

 

1.1 AIDS治療薬の開発

 HIV−1プロテアーゼの阻害剤はAIDS治療薬の一つで、この阻害剤の開発に、X線結晶構造解析は多いに貢献した。1989年に、HIV−1プロテアーゼのX線結晶構造解析が3ヶ所で行なわれた(Navia et al.Nature 337,615−20(1989);Wloder et al.Science 245,616−26(1989);Lapatto et al. Nature 342,299−302(1989))。また、これとほぼ同時に中央のペブチド結合を-CH2-NH-に置き換えたオリゴペプチドとの複合体(Miller et a1.Science 246.1149−1152(1989))、翌年にはアセチルペプスタチンとの複合体(Fitzgera1d et a1.J.Mol.Chem. 265.14209−19(1990))のX線結晶構造解析も行なわれた。これらによると、HIV-1プロテアーゼは2量体で存在し、それぞれの単量体は2量体の中央にある2回回転軸で関係づけられている。また、阻害剤の結合部位や結合様式も明らかにされた。これらの情報に基づき、2回回転対称の化合物など、沢山の阻害剤が開発され、現在迄に約300種の複合体のX線結晶構造解析が行なわれている。残念なことに、我国ではHIV-1プロテアーゼ及び複合体のX線結晶構造解析はなく、この差がこの分野における欧米各社のリードを許している一つの原因と考えられる。

 HIV−1は薬剤耐性の変異株が出来易く、プロテアーゼ阻害剤耐性のHIV−1も既に存在している。これらの耐性株のプロテアーゼは、阻害剤の種類によって異なるが、例えば82番のバリンがアラニンに、またあるものは84番のイソロイシンがバリンに突然変異している。その変異が生じた箇所をプロテアーゼの三次元構造上でチェックすることにより、これら変異体のプロテアーゼ阻害剤の再設計が効率よく行なえる。ここでもX線結晶構造解析の結果は大いに役立つはずである。

 Desjar1aisらは、HIV−1プロテアーゼの三次元構造に基づき、非ペプチドの新しいリード化合物を見出した(Proc.Nat.Acad,Sci,USA 87.6644−48(1990))。彼らは新しいコンピュータプログラムを開発し、HIV−1プロテアーゼのX線構造解析の座標値を用い、結合部位と相補的な三次元構造を持つ化合物をケンブリッジ緒晶構造データベースから検索し、抗精神病薬のbromperido1を選び出した。

 bromperidolの臭素原子が塩素原子に置き代わったha1operidolのHIV一ユプロテアーゼとの結合解離定数Kiは約100μMであった。この結合能は治療薬としては不十分ではあるが、新薬開発のリード化合物として役に立つ。これはX線構造解析の結果を利用したリード化合物探索法の一つと言えよう。

 

1.2 Agouron Pharmaceuticals社の薬物設計

 Agouron Pharmaceutica1s社は1984年に創立され、それ以後、コンピュータシミュレーションでタンパク質の構造に基づいた新薬を設計し、ガンやAIDS、ウイルス性疾患などの治療薬開発を行なっているベンチャー企業である。現在、従業員は210人で、そのうち24人がX線結晶構造解析に従事している。

 チミジル酸合成酵素阻害剤の開発に際しstructure−based drug designを行なった。まず最初にチミジル酸合成酵素と5-f1uoro-2'-deoxyuridy1ateと10-Propargyl-5,8-dideazafo1ateの3重複合体のX線結晶構造解析を行ない、阻害剤の結合部位と結合様式を明らかにし(Matthews et a1.J.Mo1.Bio1,214,923−36(1990))、この情報を用いたコンピュータ・シミュレーションで新規阻害剤を設計した。次に、この阻害剤とチミジル酸合成酵素との複合体のX線結晶構造解析を行ない、また別な阻害剤を設計した。このような過程を数回繰り返し、チミジル酸合成酵素との結合解離定数Ki=5μMの阻害剤から出発し、Ki=0.005μMの新規阻害剤の薬物設計に成功した(Reich,et al.J.Med.Chem. 35,847−58(1992))。このような方法で開発したしたチミジル酸合成酵素阻害剤AG−331とAG−337は抗ガン剤として臨床試験が行なわれ、AG−337は今年にフェーズの段階に入った。また、抗AIDS薬の経口HIVプロテアーゼ阻害剤AG−1343も臨床試験を開始する予定である。

 Agouron Phamaceuticals社はその他、ガン増殖の鍵と言われているホスホリボシルグリシンアミドホルミルトランスフェラーゼのX線結晶構造解析を行ない(Almassy et a1.Proc.Nat1,Acad.Sci.USA 89, 6114−8(1992))、新しいタイプの抗ガン剤として、AG−2026を開発した。また、HIV−1逆転写酵素のリボヌクレアーゼHドメインのX線結晶構造解析も既に行なっているので(Daviesetal.Science 252,88−95(1991))、そのうちに新しいタイプの抗AIDS薬も開発されそうである。

 

1.3 サイトカイン等

細胞から放出され、細胞間相互作用作用を媒介するタンパク質性因子で、免疫応答の制御作用、抗腫瘍作用、抗ウィルス作用、細胞の増殖と分化の調節作用などを示す物質を総称してサイトカインと呼ばれている。これらは一時期、抗癌剤などの新薬になるのではないかとかなり期待されたものだが、薬になったものは現在のところまだ小数である。しかし、これらサイトカインの周辺から、新薬が開発されるであろうことは確かである。例えばサイトカインと同じ働きをする物質とか、サイトカインの受容体との結合能を低下させる物質などが考えられる。これらの物質を設計する際には、サイトカインの受容体との結合部位とか結合様式などの知見が必要になるが、このような情報はサイトカインの三次元構造を基にしてはじめて得られる。以下に、X線結晶構造解析されたものを列挙する。ここに洩れたものもあるだろうから、かなりな数

 

interferon-β; Senda et al. Proc. Japan Acad. B 66, 77-80(1990)

interfrron-γ; Eakucj et al. Science 252,698-702(1991)

interleukin-lβ; Finzel et al. J. Mol.Biol. 209, 779-91(1989)

interleukin-2; Brandhubre et al. Science 238, 1707-9(1987)

inter1eukin−4; Walter et al. J. Biol. Chem. 267, 20371-6(1992)

interleukin-5; Milburn et al. Nature 363, 172-6(1993)

interleukin-8; Baldwin et al. Proc. Natl. Acad. Sci.USA 88, 502-6(1991)

tumor necrosis factor; Jones et al. Nature 338,225-8(1989)

human growth hormone; De Vos et al. Science 255,306-12(1992)

nerve growth hormone; McDonal et al. Nature 354,411-4(1991)

fibroblast growth factor; Ago et al. J. Biochem Tokyo 110,360-3(1991)

platelet Factor 4; Charles et al. J. Biol. Chem. 264,2092-99(1989)

cyclophilin; Pflugl et al. Nature 361,91-4(1993)

 

の構造解析が行なわれていることがわかる。human growth homoneは受容体の結合ドメインとの複合体のX線結晶構造解析であるから、新薬開発に繋る多くの情報が得られる。

 

1.4受容体の構造

 ホルモンなどの化学伝達物質、味覚・嗅覚を起こす物質、多くの薬物、さらにウィルスや毒素などは、細胞膜上などにある受容体と特異的に結合することによって、薬物などの作用を細胞内に及ぽす。この受容体の三次元構造構造に基づく薬物設計は製薬企業にとってこれからの重要なテーマの一つであり、ここから画期的な新薬が開発されることだろう。以下に、X線結晶構造解析が行なわれているものを列挙する。

 

glucose/galactose receptor; Zou et al. J. Mol. Bio. 233,739-52(1993)

tumor necrosis factor receptor; Banner et al Cell 73, 431-45(1993)

glycophorin A; Wright J. Bilo. Chem. 267, 14345-52(1992)

ribose receptor; Mowbray et al. J. Mol.Biol. 225, 155-75(1992)

human growth hormone receptor; De Vos et al. Science 255,306-12(1992)

 

 tumor necrosis factor receptorとhuman growth homone receptorはそれぞれのサイトカインとの複合体で、前者はRoche社が、後者はGenentech社によって構造解析がなされた。このように、サイトカインや受容体の三次元構造は薬物設計のターゲットになっていることがわかる。

 

2. 日本と欧米の企業の比較

2.1 欧米企業のタンパク質X線結晶構造解析

 1.2節でAgourn Phamaceuticals社を紹介したが、その他でX線結晶構造解析を既に行ない、その成果を報告している企業は多い。 思い付くままに列挙すると、

Glaxo

Ciba−Geigy

Roche

Abbott

Boehringer Inge1heim

Merck&Co

Sandoz

Eli Li11y

Marion Merrel Dow

Du Pont Merk

Hoechst    

SmithKiine Beechm

PfPfizer

Upjohn

Genentech

 

などである。気が付かれた方も多いと思うが、ここまで示して来たタンパク質のX線結晶構造解析はほとんどがここ4〜5年に発表されている。企業の場合もここ数年が多く、まだ報文を出していない(筆者が気が付かない)企業もあるだろうから、タンパク質のX線結晶構造解析を出来る実力を持つ企業はこの数の数倍位であろう。また、X線結晶構造解析を始めた時と、報文になった時の差は数年あるだろうから、これらの企業は5〜6年前から構造解析の体制作りを行ない、構造解析を始めていると推察される。

 

2.2 欧米企業のコンソーシアム所有の放射光ビームライン

 日経バイオテク(1994.1.31付け、BI−3頁)によると、米国エネルギー省がイリノイ州Argon に建設を進めているシンクロトロン放射光施設のAPS(Advanced Photon Source)にMerck社やUpjohn社、EliLi1ly社など医薬品企業13社が共同でビームラインを設置する計画が具体化している。デイレクターはイリノイ大学のモリソン教授で、建設必要経費は1000万ドルである。

 また、Chem.&Eng.News 1993 December 20.p6に拠ればDuPont社とDowChemica1社、Northwestem大学の3者は、1996年の開始を目指して、同じくAPSにビームラインを建設することに合意した。こちらの建設必要経費は7〜800万ドル、維持管理費は年間100万ドルである。

 一方、欧州ではヨーロッパ連合12カ国がフランスのグルノーブルに建設を進めているESRF(European Synchrotron Radiation Faci1ity)では、建設が決まった14本ほどのビームラインのうち2〜3本がタンパク質のX線結晶構造解析用で、さらに、未確認情報ではあるが、そのうちの1本は欧州の製薬企業用だと言われている。このように、欧米では民間企業が共同で出資し、放射光のビームラインを持とうとしている。

 

2.3 日本の企業のタンパク質X線結晶構造解析

 我国でタンパク質のX線結晶構造解析を報告している企業はほんの数社にすぎない。X線回折装置の製造メーカによると、生体高分子用X線回折装置を購入した企業はここ1〜2年で十数社、購入を検討している企業が数社あると言う。つまり、約20社がタンパク質のX線結晶構造解析の体制作り、或いは構造解析を既に始めていることがわかる。即ち、我国の企業のタンパク質のX線結晶構造解析はやっとその途上についた段階であり、欧米の企業に比べて5〜6年立ち遅れている。しかも、現在のタンパク質X線結晶構造解析の進歩の速度は非常に速く、欧米企業との差の解消が遅れれば遅れる程、その差は益々広がり、その差の解消が困難になる。

 

3.何故シンクロトロン放射光か?

3.1 シンクロトロン放射光の利用

 冒頭で述べたstructure−based drug designの技術的基盤であるタンパク質のX線結晶構造解析を行なうには、タンパク質の単結晶にX線を照射し、その際に生じる回折X線のデータを収集する装置が必要である。実験室レベルの回折データ収集装置としては、長い間4軸型白動回折計が主役であったが、最近ではイメージングプレートを用いた二次元検出器を備えたカメラ型が主流になりつつある。これらに対する放射光の優位性を簡単に言えば、強度が強く(実験室レベルの1000倍以上)、ビームの平行性が良いことである(詳しくは坂部先生の報文を参照)。そのため、従来では結晶の大きさはO.5m位必要であったが、放射光では0.05mmの小さな結晶でも短時間で回折X線のデータ収集が可能になり、X線結晶構造解析の大半を占める結晶化の過程が大幅に短縮される。また、多波長異常分散法による構造解析も可能なので、従来では2種以上必要であった重原子同型置換体も1種でよく、この点でも構造解析の時間は短縮される。放射光利用の別な利点は、従来不可能であった分子量が10万以上の大きなタンパク質でも回折データの収集が可能なことである。今後、ますます薬物の標的となるであろう細胞間あるいは細胞内のシグナル伝達に関わるタンパク質間相亙作用などは、その際のタンパク質複合体の分子量は非常に大きく、放射光の利用なしにはX線結晶構造解析は不可能である。

 

3.2 コンソーシアム結成の必要性

 今迄はタンパク質のX線結晶構造解析は時間がかかり過ぎていた。今ではそれが短期間で可能になったし、放射光を利用すれば、もっと時間は短縮される。そして、そのことは2。1節で述べた欧米の企業に対する立ち遅れを挽回する最良の手段でもある。この切り札と言うべき放射光を民間企業が利用しようとしても、現在は高エネルギー研究所の2本の放射光ビームラインしか利用出来ない。しかも、このビームラインは利用者が多く、また、大学等の共同利用のため建設されたものなので、民間企業が利用の申し込みを行なっても、実際の使用は半年後になってしまう。これでは放射光を利用しても、時間の短縮にならない。特にstructure-based drug designを行なう場合には、標的タンパク質と異なる阻害剤との複合体の構造解析を何度も繰り返し行なうので、このサイクルをなるべく素早く行う必要があるが、このような状況では、放射光の利用はあまり意味がない。このような現状を打破するためには、必ずしも民間企業専用である必要はないが、企業が手軽に使用できる放射光ビームラインの建設が必要である。一企業でビームラインを所有するには費用が高すぎるし、また、放射光ビームラインの性能からしても空き時間の方が多くなってしまう。即ち、2.2節で述べた欧米の企業のように、コンソーシアムを結成し、放射光ビームラインを建設した方がよい。欧米の企業のコンソーシアムによるビームライン所有の計画はかなり先行しているので、急いでコンソーシアムを結成しなければならない。ビームラインの建設は、薬物設計に重要なX線結晶構造解析の立ち遅れを解消し、欧米企業に対抗できるようになるための第一歩である。(文責 畠)