構造生物 Vol.1 No2
1995年12月発行

構造生物学研究センターの設立に向けて


伊倉光彦

筑波大学先端学際領域研究センター/応用生物化学系
兼トロント大学/オンタリオ癌研究所

Toward Establishing a Structural Biology Center in Tsukuba

Mitsuhiko Ikura

Center for Tsukuba Advanced Research Alliance and Institute of Applied Biochemistry, University of Tsukuba, and Ontario Cancer Institute and Department of Medical Biophysics, University of Toronto

Structural Biology has become an important field in medicine, pharmacology, and agriculture. Hundreds of structural biology laboratories have been established in the world over the last several years. As a Japan's leading research center, Tsukuba city is an ideal place to build a research center for Structural Biology. This note will discuss various considerations and my personal view to this idea.

構造生物学が生物学の新しい潮流として注目を集めている。世界各地の大学及び研究 機関で構造生物学研究室の拡充や新設が盛んに報じられている。このような状況の中で、日本においても構造生物学の中核的センターが次々と設立される気運にあることは大変 心強い。つくばは、高エネルギー研究所の放射光実験施設をかかえ、また製薬/化学系 の数多くの民間研究所、公立研究機関、それに筑波大学に、生体高分子構造にかかわる 研究者が多い。TARA坂部プロジェクトから、つくばに構造生物学研究センター設立の 声があがることはきわめて自然であろう。長らく北米でこの分野の研究に携わり、その 動向を見てきた一研究者として、筑波学園都市にふさわしい構造生物学研究センターの 在り方に関して私見をまとめて見る。

構造生物学の誕生

構造生物学はどのように誕生したのか?この学問の源流は、遺伝情報に原点を置く分 子生物学に求めることができる。遺伝子工学のすさまじい発展により、数万にのぼる遺 伝子の塩基配列すなわち蛋白質の一次構造が明らかとなった。しかしながら、多くの場 合、一次構造のみから蛋白質の機能を十分に理解することは難しい。そこで生物学者の 中から、蛋白質の高次構造を知りたいという欲求が次第に増した。それには、どんな技 術が必要か?申すまでもなく、X線回折及びNMRということになる。Structural Bio1ogy すなわち構造生物学は、構造の重要性を認識する生物学者によって命名されたと考えら れる。方法論をそれまで中心に研究してきた多くのX線/NMR研究者にとっても、構造 生物学とは何と響きの良い名前であったことか?自分たちの持つ技術を用いて生物学の 未知のテーマに迫ることに生物学者の方から応援の旗が揚がったのである。今では大多 数のX線/NMR研究者が構造生物学者と名乗る時代になってきたが、これはほんのここ 数年のことである。

欧米の動向

欧米での構造生物学の発展は、まさに分子生物学者によって支えられてきたと言って も過言ではない。ここ4-5年の間におびただしい数の構造生物学を専門とする研究室 が新設されたことは、NatureやScienceの求人広告欄をペラペラとめくれば一目瞭然で ある。私もその恩恵をこうむり4年前に、トロント大学/オンタリオ癌研究所に研究室 を持つ機会を得た。私の研究室は新設の分子構造生物学部門に属し、この4年間に私も 含めて5人の構造生物学者がfacu1tyに採用された。内訳は、NMR2、X線2、Protein folding 1で、既存の電顕 1、ペプチド化学1を含め充実した組織となった。この新設 部門設立の立役者は、Victor Ling教授というP-glycoprotein(multi-drug resistance gene) の発見で著名な分子生物学者である。彼の学術的功績のために大きなグラントがあたる。 その予算をもとにして、彼は彼自身の夢であった構造生物学部門の設立を自ら提唱し実 現した。その後、Ling教授は20余年に及ぶオンタリオ癌研究所を後にして、今年夏 British Columbia癌センターの副所長へと旅立った。それにしても、本当に良き理解者 を得たものと彼への感謝の気持ちは、彼が去ったあと日に日に増すばかりである。蛇足 だが、私が初年度に出した10万ドルの赤字をも面倒をみてくれたこと、忘れるわけに はいかない。

それから、筑波大学TARAセンターの二つの生物系ポストのうち一つが構造生物学 に与えられたのも、村上和雄教授をはじめ多くの生物系の先生方のご支援のたま'もので ある。このように、私も含め多くの構造生物学者は分子生物学の先人たちの恩恵にあず かり現在存在するわけで、彼等への恩返しは分子生物学では未解決な問題への解答を出 すことでなされねばならないと思う。

私のエピソードはほんの一例に過ぎず、欧米での多くの構造生物学研究室新設はX線 やNMR研究者以外の生物学を専門とする研究者のイニシアチブによって始まっている。 NMRの分野に限って言えば、米国では、Harvard, Ya1e, Scripps, NIH, Univ. of Wisconsin, Sloan-Kettering Cancer Center, Univ. of Texas, State Univ. of NewYork, カナ ダでは、Univ. of Toronto, Univ. of A1berta, 欧州のEMBL、スイスのETH, オランダ のUniv. of Utrecht, それに英国のOxfordなどが設備面でも人材面でも充実している。さ らに北米では上記のセンターに匹敵もしくはそれ以上の規模の構造生物学センターを設 立しようという計画が進行中である。たとえば、NewYorkのMount Sinai School of Medicineは、X線、NMR、構造理論学研究者など構造生物学者を多数採用し、既存の生 物学者との協同研究を積極的に支援して、一大構造生物学センターにしようとしている。

高価な学問

ご存じのように、構造生物学はきわめて"expensive"な学問である。微量の試料で高分 解能のX線解析を行うには放射光施設の利用が不可欠であるし、汎用のX線装置にして も数千万円はかかる。NMRは、現在800MHzの装置が最大で(Frankfurt大とYale 大で来年中に稼働する予定)、その値段は数億円にのぼる。900MHz級の装置も Oxford Instrumentで試作中であるが、高さ15メートルにも及ぶ巨大な超伝導磁石を 格納するための施設及びその運営に必要な人材及び消耗品(液体窒素及びヘリウム)は、 おおよそ一研究室で負担することは不可能である。構造生物学はいわゆる"big science" でもある。また、後に述べるように、構造生物学センターの成功には、様々な技術の連 携プレーが必要である。遺伝子組み換え、大量培養、蛋白質の大量精製などに必要な人 材と設備、構造解析に必要なコンピュータ技術及び理論計算を専門とする人材と設備な どは不可欠である。このような高価な学間がゆえに、既存の研究室体制では不可能な面 が生じており、構造生物学センターの発想は予算面での制約に起因するところは大きい。 欧米では、個人の寄付によって多くの場合まかなわれている。先に示したMount Sinai もかなりの部分個人からの寄付によって実現可能と聞くし、また、私立財団Howard HughesMedical Instituteの膨大な援助なくしては現在米国で大成功している多数の構造 生物学研究室は存在していない。文化の異なる日本では、日本独自のやり方で資金の集 中を考えていくしか道はないのではないか?

技術の高度化と多様化

最近の生物学一般に言えることと思うが、様々な実験技術の併用によってより深い洞 察を試みることがよいサイエンスとして受け入れられる傾向にある。構造生物学におい ても、カラフルな図を用いて立体構造を見せるだけでは、十分な評価/関心が得られな い状況である。その意味で、今後益々多様な実験技術の併用が不可欠である。たとえば、 X線とNMRは互いに相補的に使われるべきであるし、生化学的データとの関係付け、さ らには電顕、X線小角散乱、光散乱などのデータとの比較も重要である。これは一研究 室の許容範囲を超えるものであることは明らかである。

また、NMRに限ってみても、技術の高度化ゆえに分業化が進んでいる。効率のよい データ収集のためのパルス系列や安定同位体ラベル化技術の開発はそれぞれ一分野を築 き、それらを積極的に利用したより複雑な蛋白質系への応用には多くの研究者がしのぎ を削っているし、さらには、NMR構造決定のための理論面での研究はまだまだ不完全 な部分があり、今後益々この方面の研究に期待が寄せられるであろう。したがって、 NMRの分野に限って見ても、異なる専門を有する研究者の間の有機的な相互作用が強 く望まれる。

望まれるセンターとは?

これらの背景を踏まえて、それでは研究学園都市づくばにどのような構造生物学研究 センターの設立が望まれるのか?世界の最先端で通用する研究センターにするには、設 備、人材、環境面で何が必要か?以下に私見をまとめた。 方法論的には、X線、NMR、電子顕微鏡が三本柱となるべきことは明白である。それ に、もちろん、理論計算を専門とする研究部門が三つの実験部門と有機的に相互作用す る状況が理想的である。

蛋白質を大量に発現/精製することを目的にする分子生物学部門も置くべきであるが、 他の例から見ても、この部門は単にサービス的な目的に考えるのではなく、独自なテー マを持ち、なおかつ構造生物学研究者との密接な共同研究体制を積極的に進めることの できる人材を起用することが重要である。

分子生物学と構造生物学の間には明らかな溝が存在する。その溝を埋めることができ るのは、蛋白質を研究材料とする生化学/生物物理学者である。ケイ光、CD, UV, 光散乱、それに様々な生化学的アッセイは、それらのデータ自身、蛋白質の機能を理解 するために、大きな意味を持つ。そればかりでなく、X線やNMRのターゲットとしてど の蛋白質試料が最適かを判断するためにも、これらのデータはきわめて重要である。こ のような基礎的な分光学的及び生化学的データなくしては、おそらくこの数年有名雑誌' を賑わしている立体構造解析のうち、半数以上は姿を見せていないであろう。

これらの研究部門以外に、それをバックアップする体制も必要である。坂部教授が力 点をおかれる大型装置を保守、改良することのできるワークショップの必要性は大きい。 さらに、コンピュータネットワークやシステム、プログラムの効率よい利用を保守、管 理する部門も必須である。それに、グラフィックスアートや写真をサポートする部門が あれば申し分ない。これらのサービスは、欧米の一流の研究機関ではしごく当然のこと としてとらえられている。

次に、人材面について考えて見る。重要なことは、年齢、性別、国籍等にとらわれる ことなく、本当によい仕事を活発に進めていて、将来が期待できる研究者を集めること である。日本の中にも、チャンスがないために埋もれている優秀な人材はまちがいなく 存在す乱若い人材に早い段階で独立するチャンスを与えることは、日本の科学の将来 にとって大切なのではないか?日本では大学の既存の職名には固定観念があるような ので、たとえば主任研究員制度みたいなものを新しく設けて、研究プロジェクトを独立 して遂行する若いグループをいくつか走らせてみてはどうか?もちろん、4-5年で査 定時期を設け審査するシステム等が必要である。活気のあるグループ間の相互作用が、 研究センター全体の生命力を決定すると言っても過言ではなかろう。

最後になったが、最も大切な問題は研究環境である。いくらよい設備と優秀な人材を 集めても、それらがすべてうまく回転するためには、よい研究環境を整えることが重要 である。ここで私が言う研究環境とは、建物のデザインなどの物理的な意味と、研究者 を拘束する組織などの枠組みやその運営方法などのシステムを両方含んでいる。とりわ け、日本の研究組織においてしばしば問題となる縦割の組織作りによって生ずる様々な 弊害の回避、及び研究者に課されている煩雑な事務作業の負担を大幅に軽減することも 不可欠である。ここで指摘する大学システムのソフトウェアの改革は高度な課題である が、本センター成功の要因として重要と考えるのであえて述べた。

さらに、研究センター内部に止まらず、学内/学外の研究組織との風通しのよい環境 作りが大切である。構造生物学者にとって、最先端でしのぎを削る分子生物学者や生化 学者と日常的に接触する環境を実現することは互いに有益なことであり、その意味で、 TARAセンター生物系アスペクトの研究グループと物理的にも近接した場所に構造生 物学研究センターが位置することが望ましいのではないか?また、つくばの民間及び公 立研究機関からの研究者との共同研究及び交流が円滑に行えるような研究環境の整備は きわめて重要である。民間合杜や他省庁の研究者が気軽にいつでも来られる雰囲気作り は、研究者だけでなくセンターにかかわるすべての人の理解によってはじめて実現する。 海外からの研究者の受け入れ体制の充実は、このセンターのみの抱える問題でなく、つ くば研究学園都市全体で改善していくべき共通の課題であろう。文化の異なる外国人研 究者が家族とともに快適に長期に滞在できるような、住宅、学校などの生活環境の充実 が求められる。

以上勝手に述べさせていただいたが、このようないわゆる「外から見た目」の意味を 取り入れながら、今後の議論の中からよい構想がまとまり、バランスのとれた構造生物 学研究センターの設立計画が近い将来本格的に具体化することに期待したい。最後に、 TARA坂部プロジェクトが益々発展し、日本における構造生物学の国際的拠点としてさ らに飛躍されることを願って末尾とする。


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