構造生物 Vol.1 No2
1995年12月発行

アジアを中心とした生物学研究所への夢


藤吉好則

松下電器・国際研究所

My long-cherished dream of an Asian Biological Laboratory

Matsushita IIAR Yoshinori FUJIYOSHI

I have a dream in which a Biological Laboratory would be constructed in Asia. The laboratory's focus would be to fundamental research and would include more than 200 researchers because collaboration and discussion are very important for momentum in the laboratory. The European Molecular Biology Laboratory in Heidelberg is a good example for this laboratory.

1.はじめに

恩師である坂部知平先生から何か構造生物学について書くようにとの仰せを頂い たが、お断りしたかった。なぜなら、11月3日から5日までRichard Henderson(MRC Laboratory, Cambridge), 8日から10日までNigel Unwin(MRC Laboratory, Cambridge)そして8日から14日まで Atsuo Miyazawa(MRC Laboratory, Cambhdge), 13日にはKazuhiro Aoyama(Max-Plank-Institute fur Biochemie, Munchen), 14日から25日までWemer Kuhlbrandt(EMBL, Heidelberg), 21日にはAndrew Hux1ey, さらに28日から30日までRudolf Oldenbourg(MBL, Woods Hole)など実に多くの来 客があって多忙だったからである。この事は多くの海外からの訪問者があるという 事で、歓迎すべき事ではあるのだがとりあえず忙しかった。我々のところでもこの ような状況なので、最近の日本の状況は変わりつつあるのかもしれないが、日本及 びアジアはやはり"極東"で、欧米の研究者が頻繁に訪れて日常的に討論が行える という状況にはない。最近はE-Mailが発達したために、私のところでも欧米での学問 的変化をその日のうちに知ることはできるようになりつつある。しかし、mai1のやり とりでは直接会って話すほど充分な論議ができるわけではない。

構造生物学に関してもTARAに関してもなにか意味のあることが書けるとも思え ないが、恩師の命であるから、坂部先生の「TARA坂部プロジェクトから構造生 物学センターへの発展をめざして」という立派な「夢物語」をまねて私の夢(しか し実現可能な夢ではなく荒唐無稽な夢)について書いてみることとする。 2. 日本の現状についての私見

近代科学が、ヨーロッパから発生し、主に欧米で発展してきたことは確認するまで もないであろう。日本は明治時代からそれを導入し模倣することで成長してきた。 日本の科学を担ってこられた諸先生方も、多かれ少なかれ、欧米への留学によって その力量を高めて日本での研究の基礎とされてきている。「はじめに」で書いたよ うに、最近の状況は変わりつつあるが、しかし、ほとんどの生物科学の分野におい て、「欧米におい付け追い越せ」の現状(分野によっては既に欧米を凌駕している かもしれないが)を脱しているとは思えない。

2.1 日本に構造生物学者はいないか?

「最近の構造解析をめぐる状況はめざましく、すでに1993年11月のNature, News and Views に Nicholas Short が書いているように、毎日新しい構造が発表されるような状況になっている。これは、X線結晶学やNMRの進歩の結果ではあるが、こ れらの学問分野そのものの進歩もさることながら、分子生物学の進歩による遺伝子 操作技術を用いた大量発現の方法の発展、それに、コンピュータ及びその周辺技術 の進歩によるところが大きいと思う。

日本でも、特筆すべき研究が進められつつあるが、欧米から見ると残念ながら、日 、本の構造研究の成果が充分認識されているとはいいがたい。これは、伝え聞く話で ,正確ではないが、ある若い日本人研究者が、英国から日本に帰る時に「日本には構 造学者がいないから、いくらでも就職口はあるだろう」と言われだそうである。こ れは極端な無知によるものではあるが、構造生物学分野もご多分に漏れず欧米から はこのように軽く見られている虞は充分にある(本当は、どう見られているかが問 題ではなく、実際どうかが問題である)。

2.2 何が不足しているか?

欧米の構造学者の幾人かを注意してみれば、日本の現状との違いも明らかになるで あろうが、紙面もないので、1つの例として、米国の1つのX線結晶学者のグルー プの例を考えてみよう。私は1面識もないが、Howard Hughes Medical Institute Yale University の Paul B. Siglerのグループは、重要ないくつもの蛋白質の構造解析を立て続けに発表している。例えば最近の論文を列挙すると、

  1. Crystal Structure at 2.2A Resolution of the Pleckstrin Homology Domain from Human Dynamin, Cell 79, 199-209 (1994).
  2. The Crystal Structure of the Bacterial Chaperonin GroEL at 2.8A, Nature 371, 578-586 (1994) .
  3. Determinants of Repressor/Operator Recognition from the Structure of the trp Operator Binding site, Nature 368, 469-473 ( 1994)
  4. Structure Determinants for Activation of the a-Subunit of a Heterotrimeric G Protein, Nature 369, 621-628 ( 1994).
  5. The 22.2A Crystal Structure of Transducin-a Complexed with GTPγS, Nature 366, 654-663 ( 1993).
  6. Crystal Structure of a Yeast TBP/TATA-box Complex, Nature 365, 512-520 ( 1993).

となる。私にとっては、いずれも構造を知りたいと思っていた蛋白質であり、それ ぞれの論文が出たときの衝撃を今でも覚えている。研究の質のみならず、これだけ の量の構造解析が1つのグループから発表される生産性の高さはどこにあるのであ ろうか?

その重要な答えの1つは、2)の論文からうかがい知ることができる。この論文で 成功した結晶は、同じ大学のArthur L. HorwichのグループがGroELの機能を研究する ために行った多くのミュータントの中の1つ、R13G/A126Vの結晶である。このミュ ータントだけが、高い分解能の解析ができる結晶を与えた。もちろん勝負はこのよ うな結晶化のための試料作りだけで決まるものではないが、この結晶化が決定的に 重要であり、日本の状況がこの点で遅れていることは明らかであろう。しかも、こ のような研究を進める能力の有無が、構造解析の正否を左右するような場合がます ます増えてくるであろう。このような研究における協力関係はPaul B. Siglerのグルー プに役だっただけではなく、逆にArthur L. Horwichのグループにも構造解析の結果が 彼らの研究を大きく前進させるのに役立っている。

3. 電子線結晶学の現状

X線結晶学の例を見てきたが、我々の分野、電子線結晶学を用いた膜蛋白質の構造 解析の分野についても少し見てみたい。電子線結晶学もX線と同様英国で生まれて 育ってきた。A. Klug が電子顕微鏡法に初めて解析的な手法を用いた1968年から 7年後の1975年に、R. Henderson と N. Unwin は生体膜中で2次元結晶となるバク テリオロドプシンを用いて、7Åの構造解析を行った。その15年後、R. Henderson らは45度までの3.5Å分解能の像と60度傾斜までの6Å分解能の像を用いて、 原子モデルを構築した。この解析には、電子線結晶学を確立する.のに必要な多くの 問題に対する解決方法が含まれている。残念ながら、この解析によって得られた電 子密度図は特にc軸に平行な方向の分解能が10Å程度と非常に悪いものであった。 それから4年後の1994年になって、我々が開発した極低温電子顕微鏡を用いる ことによって、光合成集光性アンテナ蛋白質(LHC)の3.4Å分解能の解析がな された。この解析ではアミノ酸側鎖をアサインできる良質の電子密度が得られて、 信頼性の高い原子モデルが構築された。我々は、Henderso耳の解析したバクチリオロ ドプシンを用いて、3Å分解能の構造解析を行った。これは60度傾斜までの3Å分解能のデータを含んで解析されており、結晶学的に信頼性の高い原子モデルを得る 事ができた。電子線結晶学で解析された膜蛋白質は基本的にはこの2つであるが、 X線を用いて解かれた膜蛋白質の構造は既に5種類にのぼっている。ただ、 AquapohnCHIP28とMicrosoma1g1u制qontrpsferaseの解析が行われており、おそらく 数年の中には電子線で解析された膜蛋白質の数は倍増するであろう。

もし良い2次元結晶ができれば、我々のところでは1年程度で解析できる見通しが できてきた。しかし、電子線結晶学の分野も、高分解能の解析にたえる2次元結晶 を得るところが、ボトルネックとなっており、いかにして良い結晶を作成するかと いう、X線結晶学と同じ困難に遭遇している。

4. 生物学研究の広い分野との連携を最も必要とする時代

我々が興味を抱いている膜蛋白質については、特に大量発現及びその精製が容易で はなく、この分野の進歩が、結局膜蛋白質の構造研究の進歩の速さを決めるであろ う。膜蛋白質の2次元結晶を作成する場合には、可溶化して精製した試料を膜中に 再構成する手法が多く用いられるが、これもなかなか容易でない。膜蛋白質の大量 発現の方法と併せて、2次元結晶化法の新しい発展が期待される。そのことを考え ると、生物学の広い分野との連携を必要とする時代に入ってきたことを実感する。 これまでのNMRやX線結晶学の発展の歴史を見ても、この事がいかに重要かを判っ て頂けるであろう。

5. EMBLのような研究所がアジアに欲しい

欧米の圭な研究機関、例えば、MITやOxfordUnivers卿などに行けば、アジア人が良 く働いている、欧米にいる何人かのアジア人と話す機会があったが、もしアジアの どこかにしかるべき研究所があれば、アジアに戻りたいと言っている。そのように 思いながらも、帰らないで欧米にいるのは、やはり良い研究環境が、アジアでは期 待できないからである。経済的には「アジアの時代」と言われ始めているが、先に 述べたように、欧米の研究レベルとアジアを比べると「アジアの時代」とはまだと ても言えない。

5.1 EMBL

HeidelbergにあるEMBLは私が夢に見るアジアの生物学研究所の1つのモデルに なりうると考えている。そのために、どのようにして出来あがりどのように運営さ れているかを調べてみた。ここでは、詳細にEMBLについて述べるのが本来の目 的ではないし、紙面もないので、割愛するが、EUROPEAN MOLECULAR BIOLOGY ORGANIZATION, 1964-1989の25周年記念号があるので、読みたい方はお知らせい ただければコピーをお送りする。参考までに、ここにあるEMBLの予算規模の推 移を示すグラフを図1に載せておく。また、EMBLの重要な特徴であるが、比較 的若い研究者に小さい研究グループを主催させている。最大9年の時限制度である が、日本のように40代になっても助手をしなければならないような研究制度でな く、若いうちから数人の研究グループで研究を進めるトレーニングが出来るように なっている。さらに、より若い研究者もLong Term Fellowshipがあるので多く訪れて、 研究交流とか教育が効率よく進むようになっている。Long Term Fellowshipの推移の グラフもあるので、これを図2に転載する。またこの研究所の成功の一つに、 EMBO Journalの発展の歴史を加えることが出来る。この雑誌は周知のように、 良いレベルの論文が掲載されるようになっている。

ただ、全てがうまくいっているわけではなく、各国の事情の違いによる困難も生じ ている。例えば、研究員を国ごとに出来る限り、「公平に」採用するということで、 必ずしも学問的レベルで人事が行われない、「政治的な人事」が生じるということ もある。

EMBLのシステムがヨーロッパで重要な役割を果たしているもう1つのことは、 上記のように若い研究者に比較的小さい研究グループを主催させ、実績を積むチャ ンスを与えていることから派生する。このような経験を積んだ後、はじめて比較的 大きいグループを組織できるような道筋が取られていることである。日本の場合に は、そのような小さいグループでのトレーニングの機会が少ないために、大きなグ ループを率いたときに重大な失敗を犯す愚がある。影響の大きいポジションに適し た人材が登用されるよう、段階的な道筋を作っておくことも重要な点であろう。

6. アジアに生物学研究所を

以上のようなことから、EMBLのような研究所がアジアのどこかに作られたら、 欧米への頭脳流出組も含めて、「極東」のアジアに高いレベルの研究所を短期間で 実現させ、欧米の研究者と日常的に交流しつつ自己教育をも行える文字どおりの研 究センターが出来ることになろう。

この研究所には、財政的に民間の支援があっても良いが、官立の名前が必要である。 さもないと安定な研究所運営は望めないであろう。この研究所には時限があっては ならない。さもないとこれを継続させるために、研究に専念すべきエネルギーを別 の目的に使うことになる。もちろん研究者には何年かの時限があってしかるべきで、 若い研究者が、積極的に研究グループを組織できるような、新陳代謝の良い態勢に しておくべきである。

「研究分野や研究の流れ」については、いっさい議論しなかった。私にその時間が ないこともあるが、これは時と共に変化するので、ここで議論するのをわざと差し 控えた。特に、研究は人(研究者個人)によって大きく変化するので、大まかにこ の方向とだけ決めておいて、具体的には人選の時に議論するのが能率的であるよう に思う。研究の流れも矢印で図示できるようなシンプルな関係ではなくて、より有機的で密接なのが望ましい。

以上のように、私の荒唐無稽な夢を書き連ねたが、坂部プロジェクトが、何らかの 形で、私の夢の取り上げるべきところ(があればそれを)を取り上げて下されば幸 いである。

何を書いても良いとお聞きしていたので、急ぎ書きなぐってしまった。結局舌足らずになってしまったが、お許し願いたい。


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