構造生物 Vol.1 No2
1995年12月発行

構造生物学とタンパク質結晶学の現在と将来


三木邦夫

京都大学大学院理学研究科

Structural Biology and Protein Crystallography - The Present and Future

Graduate School of Science, Kyoto University: Kumo MIKI

Protein Crystallography is one of the most powerful methods for determination of three-dimensional structures of biological macromolecules in the field of structural biology. The recent great progress of this method is mainly owing to the development in gene engineering technique and the use of synchrotron radiation. The present stage and the future development of protein crystallography in the studies of structural biology are discussed.

タンパク質の機能を理解するためには,その正確な原子レベルでの立体構造を知 ることが不可欠である.生体高分子の立体構造を決定するための有力な方法はX線 結晶解析とNMR法である.NMR法は溶液状態の構造が得られる利点を持つが,決定 できるタンパク質の分子量の制限があるため,そのような制限のないX線結晶解析 は,タンパク質の立体構造の決定法として極めて重要な位置を占めていることに疑 う余地はない.

タンパク質結晶学による研究の最近の進歩には目を見張るものがある.決定され るタンパク質立体構造の数は飛躍的な増加を見ており,これはタンパク質データバ ンクの登録数の最近の推移を見れば明らかである.生物科学関連のジャーナルには, 毎号といってよいほど新しいタンパク質立体構造の報告が掲載され,また,この2 年ほどの間に生体高分子の構造研究に重きを置く新しい専門誌が相次いで発刊され ている( Acta Crystallographica, Section D., Structure, Nature Structural Biology など).ま た,昨年から今年かけては,生体超分子複合体の立体構造解析のラッシュであった. 1994年8月にはウシ心筋ミトコンドリアのATP合成酵素(J. P. Abrahams. et al., Nature, 370, 621-628. 1994),同じく10月には大腸菌のシャヘロニンであるGroEL(K.Braig et al., Nature, 371, 578-586, 1994)の構造が報告され,今年に入って1995年4月には光合成細菌の集光性アンテナ複合体(G. McDemott et al., Nature, 374, 517-521, 1995)および古細菌のプロテアソーム(J. Lowe et al., Science, 268, 533-539, 1995)と続いた.記憶に新しいのは,呼吸鎖末端の酵素であるチトクロムC酸化酵素の構造決定が,日独でそれぞれ独立に,前者はウシ心筋のミトコンドリア由来,後者は土壌細菌由来の酵素を対象にして発表されたことであろう(T. Tukihara et al., Science, 269, 1069-1074,1995; S.Iwata et al., Nature, 376, 660-669, 1995).このように,時には分子量が百万にも達するような超分子複合体の構造決定は,X線結晶学の独壇場であり他の方法の追随を全く許さない.また,上に述べた超分子複合体のうち,集光性アンテナ複合体とチトクロムc酸化酵素はともに完全な膜タンパク質であり,この分野の今後の重要性と将来への確かな展望を示唆している.

タンパク質の立体構造がより身近な存在になることで,生命科学の研究者の間に も,自分たちのタンパク質機能研究の進展には立体構造が不可欠だという機運が高 まるようになった.「立体構造から生物学を論ずる」ということから,r構造生物 学』という概念があらためて認識され,ようやく実質的な意味を持つようになった といえる.

このようなX線結晶解析による構造決定の最近の目ざましい成功をもたらした大 きな原因には,主に2つのことをあげることができる.1つは,それまでX線結晶 学の対象になり得なかった微少量タンパク質の量的確保を可能にし,部位特異的変 位体が立体構造研究の幅を大きく広げた遺伝子工学の進歩である.今一つは,微小 結晶からの測定を可能にし,その波長可変性から異常分散の位相決定への効率的な 利用を可能にしたシンクロトロン放射光である.この放射光はこれまで静的構造を 対象としてきたタンパク質結晶学に,時間分割ラウエ法による動的解析で生体内の 化学反応解析への道を開こうとしている。シンクロトロン放射光の利用に,わが国 の高エネルギー物理学研究所・放射光実験施設が果たした貢献は極めて大きい.坂 部知平教授のグループによるタンパク質結晶学のためのビームラインは,国の内外 の研究者に開かれた機能的な実験環境として非常に高い評価を得ている.例えば, 上にあげた日独2つのグループでのチトクロムc酸化酵素の構造決定はいずれもこの ビームラインでの測定データに基づくもので,このビームラインの存在なしにはこ れら構造決定の成功は有り得なかった.

しかしながら,現在,このビームラインの利用者の数は,供給でき得るビームタ イムをはるかに越えており,実験する立場としては実験時間の不足にフラストレー ションを禁じ得ない状態が続いている.これは精神的にも余裕のない実験を強いら れることにもなり,実験の成功不成功だけでなくターゲットとするサイエンスの質 にも影響を及ぼすことになっている.もちろん,放射光実験施設の方では多くのご 努力がなされており,近い将来この状態が改善されることは大いに期待できる.こ のような状況において,筑波大学のTARA坂部プロジェクトの発足はまさに機を得た ものであり,このプロジェクトによる新しいビームラインの建設は,構造生物学研 究推進の機運が高まる企業の研究者へのみならず,従来のビームライン利用者にと っても大きな福音である.ましてや,このプロジェクトが「構造生物学センター」 への足ががりとなれば,おそらくこれはわが国で初めて『構造生物学』をうたった われわれに身近な具体的組織の計画になるもので,まさしく時代の要求に呼応した ことになろう.われわれの研究成果であるタンパク質立体構造に基づいた生物学的 議論を展開する場としても,従来の枠組みの学会での活動は必ずしも最適なものと 思えない節も多い.「構造生物学センター」の実現が,そのような議論の場が育ま れる基盤になることも大いに期待でき,それもまた時代の要求なのであろう. タンパク質結晶学を中心とした構造生物学の将来の方向はどのようなものか?す でに述べたように,タンパク質結晶学は将来も膜タンパク質や超分子複合体(両方 であることも多い)の構造決定で大きな力を発揮することは,これまでの成果がす でに証明している.このような対象のみならず他の多くの構造決定の場合に(特に セレノメチオニンタンパク質のような異常分散効果を利用一した位相決定を含めて), シンクロトロン放射光の利用は将来もその鍵を握り続けると思われる.次世代の大 型放射光の出現と相まって,強力な白色放射光が時間分割法の可能性は将来より現 実の問題に近づくことも明らかであろう.しかし,非常に熟した実験環境としての 放射光実験施設の存在は,現在のこの分野の研究者の大きなよりどころであり,ま た,TARA坂部プロジェクト,ひいては「構造生物学センター」への期待は極めて大 きいものがある.


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