構造生物 Vol.2 No.2
1996年10月発行

パネルデスカッションを企画して


行事委員会


はじめに

 重原子同型置換法によって初期位相が得られ分子構造を追跡しようとする際、求まった電子密度の質 が良い方が楽ですが、しばしば解釈しにくい箇所が存在すると思います。今回のパネルデスカッションで は"初期電子密度を解釈しやすく改良するにはどのようにしたらいいのであろうか?"という事をテーマ として、経験と実績をもっておられる4人の方に話題提供していただき、会場の皆さんでこの問題を考え てみることにいたしました。

1)解析に使用するソフトについて

 話題提供ではCCP4パッケージに入っているDMがとりあげられた。このDMではSolvent flatteningに加 え、蛋白領域の電子密度のHistogram matchingと非結晶学的対称(Non Crystallographic Symmetry)分子の平 均化(NCS平均化)の3つ、即ち代表的な電子密度改良手段を一括して適用できる。DMを実際に利用す るにあたり使用者が入力するコマンドはほんの数行であり、計算自体は簡単に実行できる。 その他SQUASHやF1-ATPaseの解析で実績を持つSOLOMONなども例示された。SQUASHはその役割を DMにとって代わられたようだがSOLOMONは現在ではCCP4の一員となっている。溶媒領域の電子密度を 逆転させたり、蛋白領域の電子密度をtruncateしたりなど、かなり"激しい"電子密度の操作を行い、位 相を正しい方向へ直してくれるそうである。

 NCS平均化を行う場合には、蛋白質のマスクの作成やNCS変数を前もって決めておく必要があるが、こ の目的のためのソフトとしてRAVEシステムがあげられた。RAVEはそれ自体がNCS平均化を行うための 統合ソフトで、この中に蛋白のマスクを作成するためのMAMAやNCSマトリックスを決定するNCS6D、 それを精密化するIMPが含まれている。RAVE形式のNCSマトリックスはそのままDMへインプットで きる。この他、マスク作成支援ソフトにはPHASESのMAPVIEWがあげられた。PHASES自体にもNCS平 均化やSolvent flatteningの機能は入っているが、DMの方が効果が優れているようで、山下さんはチトク ロム酸化酵素の解析にあたり、MAPVIEWのマスクをDM形式(CCP4形式)へ変換して電子密度の改良は DMで行っておられる。

 一方、鈴木さんは独自に開発してきた平均化のプログラムとDMの比較を示された。MAKEMASKとい うマスク作成プログラムと平均化のプログラムを開発し、これをPROTEINシステムヘ組み込んでこれま で平均化を行ってこられた。このMAKEMASKはマトリックスを入力すると電子密度を任意の方向から眺 めることができ、NCSを軸の方向から眺めたりもできるらしい。CCP4形式のマスクヘも変換でき、DM でのNCS平均化も直ちに行えるそうである。

 なお同型置換法の位相計算にはやはりCCP4のMLPHAREが優れており、MILPHAREとDMの組み合わせ が推奨されていた。

2)当日の話題提供について

 各講演のまとめと重複することになるかもしれませんが、当日の話題提供について状況をかいつまん で簡潔に述べます。当日の様子をお伝えできれば幸いです。

 トップの千田さんは溶媒領域をPlatにするSolvent flattening、蛋白部分の電子密度のHistogfamを修正す るHistolgram matchingについて簡潔に解説した後、実際に位相がDensity Mdification(DM)によってどのよ うに変化するのかについて考察された。横軸をFigure of merht(FOM)の計算値(位相誤差の余弦)、縦軸 をMLPHAREやDMが算出してくるFOMとして両者の相関を示す等高線図を描き、FOMがどのように見積 もられてくるのかについて考察された。その結果MLPHAREが見積もるFOMの中に不当に高くみつもられ るものが存在する事を指摘された。DM計算によって良好な電子密度を与えたものではDMが見積もった FOMとFOMの計算値とが1.0に近い領域で良い相関を示しており、FOMが適切に見積もられることが大切 であると分かりやすく説明された。この相関図による説明は類似の考察を見たことが無かったこともあり、 極めて新鮮で明解との印象を受けた。詳細は千田さんのまとめをご覧下さい。

 MIR計算でのFOMについては従来のプログラムで見積もられたものよりもMLPHAREで見積もられた方 が低くなるとのこと。このことは他の方の例でも示された。DMが有効に作用してくれるような初期位相 とはどういった場合かについて議論がなされたが、まずは分子の外形がはっきりと識別できるものがやは り必要という意見が多かった。ただし外見が分かってもその中身には解釈しにくいところはあるので、構 造が解けそうにないと判断したら即座に重原子誘導体のサーベイへ戻る姿勢が大切であると力説された。

 DMが有効なのは初期位相が良い場合であり、そういった場合でこそDMは生きてくるものであるとの 結論であった。これには当日の参加者の多くが納得の意をもたれたと思う。

 次に宮野さんはSolvent flatteningの歴史をざっと振り返り、今日のようにDM等による位相改良が可能と なった背景についてまず考察された。計算機の進歩、高速フーリエ変換のプログラムやその他の計算アル ゴリズムの開発により、Solvent flatteningをはじめとする位相改良が迅速にまた手軽に行えることとなっ た。企業の場合には競争の中で生きてゆかねばならないので、構造解析の速度アップは重要な意味を持つ と説かれた。

 Solvent flatteningにあたり蛋白領域と溶媒領域を正しく分ける必要があり、Wangの方法では自動的に分 子境界を決定してくれるが、良い分子境界を得るためには良い初期位相が必要であり、当然ではあるがこ こでも初期位相の重要性が指摘された。また実験位相(同型置換法の位相)が実際にどのようなものなの かを、位相確率分布を調べることにより考察された。官野さんが調べたSIRのデータの場合、位相確率分 布がきれいな2つのピークを示すようなものは見つけにくかったとし、実験位相は教科書にあるような理 想的なものにはならないのではないかと指摘された。"位相とは何であろうか?"と根本的に大切な 事をさりげなく問題提起された。その後話は、MAD法、DM計算におけるいくつかの注意点から、分子モ デルの誤差の話まで大変広い範囲に及んだ。それらは構造解析を実際に行う上で非常に大切なことばかり であったが、時間の関係で中途半端になってしまった感があった。詳しい点は宮野さんのまとめをご覧 ください。DMに関しては、まずとりあえずは(良い結果へつながる事を念じて?)計算を流してみると いう姿勢であった。計算してみてモデルが組めそうな結果になればどんどん先へ進もうとの考えをもっ ておられた。もちろんDMに過大な(非現実的な)効果を期待しているわけではなく、やはりもとの初期 位相が悪ければいい効果は期待できないとも述べておられ、千田さんが示した結論とこのあたりは同じで あった。

 休憩をはさんで、山下さんの話は最近蛋白質結晶学の分野で話題をさらったシトクロム酸化酵素の解析 におけるDensity Modificationの効果についてであっ:た。非対称単位中に20万の分子が2つで分子量40万もの 巨大な膜酵素の解析に参加者の関心が集まった。この結晶の構造解析過程においてはDensity Modification によって非常に良好な電子密度を得ることに成功しておられ、"位相改良が非常に強力である事を実感し た"と講演要旨で述べておられる。冒頭で"…1800残基を1か月で組み上げる事ができました。" と述べられると会場からどよめきがおこった。解析のプロセスの詳細はまとめをご覧ください。

 解析手法自体は、MIRによる初期位相計算、Density Modification、NCS平均化とオーソドックスな手法 を用いているが、最後に示した電子密度図には側鎖の電子密度もはっきりと現れており、水分子まで見え ていた。Native結晶については多数の結晶を用いて強度測定が行われたが、mosaicityが小さい結晶を選ん で1セットのデータセットを作成したとのことで、特に強度データ収集と処理に労力と工夫をこらしてい ると思った。結晶の場所によってmosaicityが変わったり、X線照射によってダメージを受けるのは他の結 晶にとっても同様であろうからデータセットのこのような構成法は参考になるのではないだろうか。(こ のあたりは前回1995年12月のパネルデスカッションの富崎さんのまとめを参照いただきたい。) MIRの FOMはやや低い値であったとのことである。当日はFOMの見積もりに関して話題になっていたが、 MLPHAREが算出してくるFOMは他の位相計算のソフトに比し、低く見積もられてくる場合が多く、むし ろ低いFOMの方が適切なのではないかとの意見があった。FOMが低く見積もられていてもMLPHAREで 求まる位相は信頼性は高いとの指摘があった。Solvent flattening、Histogfam matching、NCS Averagingを DMで行い、NCSで関係つけられる分子の電子密度の相関が92%にも達したとのことで、電子密度の質の 良さには驚くことしきりであった。(まるでモデルから計算したような電子密度であった)もとのMIRの 電子密度でも分子の外形はなんとかみてとれるようであったが、その後のDMが極めて有効に作用してい たようである。成功の要因として、強度データの質の良さ(弱い反射強度の測定精度の高さなど)、良好 な誘導体、そして溶媒含有率が高かったこと等が挙げられた。

 最後は鈴木さんにNCS平均化について話をしていただいた。非対称単位中の等価な分子の電子密度を平 均化して電子密度の改良をはかる手法で、概念的には理解しやすいけれども実際にこの計算を行うには DMのSolvent flatteningのように半自動的に行えるわけでなく、マスクや正確なNCSマトリックスを事前に 決めておかねばならず面倒である。これまで独自に平均化のプログラムを作成して使用してこられたが、 最近はDMも取り入れて両者を比較検討され、NCS平均化における注意点などを解説された。初期位相計 算には従来はPROTEINを使用していたがここでもMLPHAREとのFOMの比較がなされ、PROTEINが見積 もったFOMの方がMLPHAREのそれよりも高かったとのことである。マスク作成は独自のMAKEMASKに よって行い、はじめに非対称単位中の2分子分を一つのマスクとして切り出し、それを中心で真っ二つに 切って1分子分のマスクを作成された。(1分子の境界がよく分からなかったためにこの策をとったとのこ とであった。) OHPにはトレースした主鎖とマスクが重ねて図示されていたが、それをみたかぎりでは マスクはかなりゆとりをもって作られていたと思われた。NCSマトリックスを決めるにあたっては従来は 平均化を1回行って構造振幅の観測値と計算値のR値が最小となるようなものを探索して決めておられた が、苦労が多いとのコメントであった。DMでNCSマトリックスは精密化されるのでDMを数回流して収 束するまで精密化を繰り返すのが早くて楽とのことである。なお最初のNCSマトリックスは重原子位置か ら決められたとのこと。その後いくつかの計算事例を示してDMの効果について検証されたが、DMで NCS平均化を行う場合、蛋白領域のマスクとWangの方法による溶媒領域のマスクと2つのマスクがかか る点を鋭く指摘された。テストケースでは平均化に使用するマスクの外側でも溶媒のマスクの外側(蛋白 側)であれば蛋白の電子密度が消えてしまうことがなかったとの結果で、蛋白のマスクは厳密さを多少欠 いてもそれほど心配ないのではないかとのことであった。なお溶媒含有率については重量分率から求めた 値が最適とのことであった。計算にあたって少し溶媒含有率を増減させてみて、結果を見て(電子密度を 見て)適切な値を見つけるのが良いようだ。DM計算においては2次構造の電子密度をチェックして計 算がうまくいったのか否かを判定するのがよいと会場から指摘があった。なお鈴木さんらによる独自の平 均化法もDMの効果に互する結果を与えており、"DMに負けてないな"と自信を示されていた。

3)当日の参加者から  ところで当日話題提供を頂いた方々の事例はいずれもそこそこ溶媒含量が多いものでした。しかし例外 的に溶媒含量が低い結晶に遭遇する場合もあるかと思います。当日参加された東京大学の田之倉研助手の 佐々木宏さんから以下のような私信を頂きました。その結晶は溶媒含有率が26%程度と極めて低く、通常 の蛋白結晶の場合に比してSolvent flattiningによる位相改良はあまり期待出来なかったとのことです。

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 1995年秋当時CCP4に入っていたdm version1.5ではmodeをsolv histおよびsolv hist sayreとして、100cycle 計算すると、freeRは0.35程度には下がるが、得られたマップは主鎖があちこちで切れてトレースが困難で あった。北大の中川さんより、yorkのdmを使うようにとアドバイスをうけた。そのおかげで劇的にマップ が改善された。yorkのdm(dm version1.6)では、dmの計算optionが以下のように大幅に増えていた。この versionではmodeとしてsolv hist sayr flip(skel aver;この2つは使用していない)がある。phase combination の方法は、reflection omit combination(renectionをomitしたSigmaA),SigmaA combination,Free‐Sim phase combinationの3種類が選べる。さらに、FreeRのかわりにreal-space-fre residualを指標として用いることも できる。このようにoptionは多いが、実際にはmanua1にphasecombinationの方法ごとに用いるべきoptionが 指定されているので3、4種類の計算を行なうだけで良い。この結晶の場合には,OMIT modeとよばれ るoptionの組合せの時のみ、劇的にマップが改善された。

 この場合には5サイクルで計算が終了し(NCYCLE AUTOではreal-space-free residualが下がると、適当な ところで計算が打ち切られる)、FreeRが0.378,real-space-free residualが0.090であった。

 あくまで推測に過ぎないのですが、Acta Cryst(1996)D52 p43-48 Cowtan and Mainの論文をちらっと見た 限りでは(きちんと読んでいませんが)、density modificationの際に機の反射として用いるものを計算の サイクルごとに変化させればself consistentに位相を決めてしまう危険性が低くなるので、その結果、間違っ た位相データセットから抜け出すことができ、きれいなマップが得られたのではないかと考えています。  *********************************************

yorkのdmとは現在CCP4へ入っているものとほぼ同じである。ここで問題なのはDMの旧版では同様 の計算条件でも、うまく電子密度の改良が成されなかったが、新版において上記計算条件のときのみ劇的 という点である。新版には位相統合法がオプションで選べる機能が加わっている。DM の解説にも記されているがREFLECTION OMITモードがかなり有効に作用したとのことである。(理論 の詳細は原論文を。)

4)おわりに

 以上、当日を振り返ってみてみると、FOMの見積もりのことなどその日だけではとても解決、納得で きそうにないような問題が議論されました。またその一方すぐにでも知識として吸収できる実益的な話も たくさんありました。電子密度の改良というテーマに対しても様々な見方を皆さんもっておられたようで す。

 初期位相が大切であり、重原子誘導体に関しては悪いものがたくさんあるよりは、質の良い誘導体が1つあった方が良いとの指摘がありました。講演の要旨で千田さんが述べられたことを当日のまとめとし ヒいと思います。

 "Solvcnt flatteningやHistogram matching等の手法は、確かに初期位相が良いときは有効である。但し、 初期位相が悪い場合は、かえって解釈を混乱させる結果となりかねない。やはり、重原子誘導体の作製に 重点を置いて解析を進めるべきである。それでこそ、これらのdensity modificationの手法も生きてくる。"

 なお今回の参加者は52名で定員60名の会場の座席を適切にうめつくす参加者数でした。また大学の教官 の参加が多かったのが特徴でした。話題提供の先生方、当日参加して下さった方々、皆さん遠いところか ら足を運んでくださいましてありがとうございました。次回以降も役に立つ勉強会を企画いたしたいと思 いますのでご意見、ご希望を我々にお寄せください。
(文責 酒井宏明)


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sasaki@tara.met.nagoya-u.ac.jp