構造生物 Vol.2 No.2
1996年10月発行

基礎と応用


八木浩輔

筑波大学・研究担当副学長

 自然科学の応用研究は、しばしば基礎科学の研究と対比されて考えられます。ところ で両者は密接な関係にあり、私は、特に以下の点を強調したいのです:基礎科学的研究 が、基本的且つ普遍的であればある程、その開拓できる応用範囲は広大且つ重要なもの になるということ、即ち、優れた基礎研究を基盤にしてこそ、真の意味の応用が開ける という指導原理です。具体例を二つ挙げてみましょう:先ずは、マイケル・ファラデイ の電磁誘導の発見(1881年)と現代文明です。後者が如何に電気・電力に依存して いるかを考えれば、それを可能にした前者の偉大さがわかります。"基礎"と"応用" の関係は、以下のエピソードに端的に現われています。ある日、英国の商工大臣がファ ラデイの実験室を訪れ、彼に、そのような訳のわからない基礎科学の研究が人類の役に たつのかと尋ねた。ファラデイ謂く、"閣下、この実験結果は、明日、一年後には役に 立たないかもしれません。しかし10年あるいは1/4世紀の長さで眺めていただけれ ば、人類や国家を富ます可能性があります。この研究は、それだけの基本性と普遍性を 秘めています"と。実際この発見は、電気と磁気を統一し、そしてマクスウエルをして 電磁波を予言せしめ、その電磁気学はアインシュタインの相対性理論の基盤を与え、且 つ、現代物理学の基本原理の一つであるゲージ理論の手本となる程の普遍性を持ってい たのです。

 もう一つ現代的な例を挙げましょう:量子力学の創造(1924-6年)と半導体素 子の発明です。ミクロな世界の記述を可能にした量子力学の発見(発明)は、当時の物 理学における極めて基礎的な研究に基づくものです。そしてそれは、人類の自然認識に 革新をもたらす程のインパクトと普遍性を持つものでした。この新力学が固体物質に応 用され、ショクレイ、バーデイーン達のトランジスタの発明(1948年)に実るため には、更に1/4世紀の年月が必要でした。それまでの真空管を如何ほど熱心に研究し ようとも、決してトランジスタは誕生しなかったことを考えあわせると、量子力学とい う基礎科学こそが、半導体素子という全く新しい応用分野の開拓を成し遂げたことに思 いが及びます。そして、基礎研究がすばらしい応用研究を生み出すためには、さき程の ファラデイの言葉を借りると、"1/4世紀の長さで眺める"必要があったのです。

 さてここで、特に大学における基礎研究の重要性につい考えてみましょう。革新的で 偉大な応用分野を開発するためには、ファラデイの実験室、量子力学黎明期に相当する かなり長期にわたる基礎研究が必要です。研究者が、暗中模索、試行錯誤を繰り返す混 沌の時期です。拙速に目鼻を付ければ、中国の故事に倣い、"混沌"は死に兼ねません。 しかしこの問題は、大学という環境に於いては、別の解決法がありましよう。即ち、こ こで最も重要なことは、そもそも大学とは基礎研究が絶えず真摯に行われている所であ り、従って、画期的な応用研究への基盤が、此処かしこに高いポテンシャルで存在して いることです。この基礎に立ってこそ、真の意味の応用が開けるのだと思います。


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