構造生物 Vol.3 No.2
1997年7月発行

構造生物学の原点と進展


三浦謹一郎

学習院大学・理学部・生命分子科学研究所

構造生物学の今日の隆盛は目を瞠るものがある。蛋白質を始めとする生体物質の分子 構造の研究は生物学の中核になってきている。医学を含めて応用生物学にとっても問題 の解明は究極的には構造生物学に委ねられる。構造生物学という言葉は多分1990年代に なって使われるようになったと考えてよいだろう。この時代の動きをみて雑誌Natureが Nature Structural Biologyを発刊したのが1994年である。

構造生物学は生物の形態学ではなくて生物の分子科学である。つまり分子生物学であ る。分子生物学では遺伝現象にかかわる分子遺伝学が先行したので、あたかも遺伝子の 構造・複製・転写・翻訳の問題が中心と考えられているが、分子生物学は本来、「分子 のレベルで説明する生物学」(R. T. Steiner)である。分子生物学では遺伝子の研究が進 み、生体内の微量の蛋白質を多量に調製することを可能にしたばかりか、蛋白質の構造 改変も可能にしたので、蛋白質の構造研究が目ざましい進展を遂げ、生物機能の理解を 深めることができるようになった。

「構造生物学」という言葉が使われ出したのは最近のことではあるけれども、その原 点はほぼ半世紀遡ることになろう。蛋白質の構造研究を目的にJ.D.Berna1とD.Crowfoot (後にHodgkinに改姓)がトリプシンの結晶にX線を当ててきれいな回折像を得、蛋白質 分子が特定の立体構造をもっていることを示したのが1934年である。M.Perutzがヘモグ ロビンの結晶に対してX線構造解析に着手したのは1937年のことで、1959年に構造解明 に成功した。従って構造生物学の発祥は1940年代と考えてよいだろう。Perutz博士は構 造生物学のパイオニアであるといってもよい。ケンブリッジ大学ではBragg親子による 低分子化学物に対するX線構造解析法が開発されていたが、蛋白質に対するX線構造解 析が上記のように試みられたほか、いろいろな角度から蛋白質の構造研究が活発に進め られた。そしてその雰囲気の中でWatsonとCrickによるDNAの二重らせん構造の解明 が行われたことはあまりにもよく知られた話である。従って構造生物学の発祥地はイギ リスのケンブリッジといってもよかろう。蛋白質も核酸も高次構造だけでなく、一次構 造を分析する方法が確立され、初めてそれが実施されたのもF. Sangerの手でケンブリッ ジで行われていることは驚くべきことである。一方、溶液中での蛋白質や核酸の構造研 究の初期の中心の一つはP. Dotyのいたアメリカのハーバード大学であり、そこにはDN Aの一次構造解析法確立のもう一方の立役者W. Gilbertらがいた。何か大きな仕事が生ま れる場所というのはそれなりの下地がある場所のように思える。

今は構造生物学の研究方法もX線回折だけでなく、核磁気共鳴NMRや電子顕微鏡そ の他の方法も盛んに用いられるようになり、研究の拠点は世界中を見廻すとヨーロッパ、アメリカのみならず、日本にもいくつかできている。放射光施設を擁する筑波もその一 つとして大きな役割を果たしている。日本でも研究機器の開発まで含めて構造生物学に 多くの貢献を果たしつつあるが、次の半世紀にはますます大きな貢献ができるようにし たいものである。


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