構造生物 Vol.4 No.3
1998年12月発行

セレノメチオニン置換体を用いた多波長異常分散法による構造解析


中川敦史

北海道大学・大学院理学研究科

0.はじめに

セレノメチオニン置換体を用いた多波長異常分散法による構造解析は,良好な重原子誘導体を作 製するための試行錯誤を必要としないため,迅速な構造解析を行うことが期待できる.実際,ここ 数年,この方法により構造解析された構造は飛躍的に増加している.この方法は,通常の多重原子 同形置換法での構造解析と本質的には回じであり,いくつかの点に注意して解析を進めていけば, 確実にゴールにたどり着けるであろう.

1.データ収集

1・1.波長の選択

図1に示すように,異常分散項は吸 収端波長近傍で急激に変化するので, 異常分散効果を最大限に利用するた めには,吸収端付近の波長を正確に知 る必要がある.異常分散項の虚数部 (△f')は,直接蛍光X線強度と関係付 けられる(実数部(△f")は虚数部と Cramers-Kronigの関係で関係付けられ る).このため,回折データ収集に先 立って,データ収集に用いるサンプル の蛍光X線スペクトルを測定してお くことが望ましい(低温実験を行うの でなければ,実際に測定する試料にX 線を照射しない方が良いので,その場 合には,回折データ収集ができないよ うなあまりきれいではない結晶を使う ことが良いであろう).もし,サンプ ルが小さくて十分な蛍光X線が測定で きない場合には,セレノメチオニン水 溶液などをキャピラリーに詰めて測定 試料とする.

蛍光X線の測定は,PFのビームラ インであればシンチレーションカウンターを用いて行う.はじめて実験を行う場合,詳しい測定方 法に関しては実際に測定する時に担当者に尋ねた方が良い.図2に蛍光スペクトル測定システムの 構成図を示す.この測定は,EXAFSの実験ではないので,きれいなスペクトルを得る必要はないが, 吸収端を確認できるスペクトルを得るためには,いくつかの点に注意しなければならない.第一に, サンプルからの蛍光X線は微弱なため,検出器をできるだけサンプルに近づけること.第二に,シ ンチレーションカウンターは,エネルギー分解能が低いので,できるだけバックグラウンドを下げ る必要がある.PFのビームラインにはシンチレーションカウンターの前に取りつけるスリットが 用意されているので,これを使うとバックグラウンドを大幅に減少させることができる.第三に, これはしばしば経験する ことであるが,蛍光X線の 強度が強すぎてシンチレ ーションカウンターが飽 和していることに気がつ かずに測定をしてしまわ ないようにすることであ る.シンチレーションカウ ンタは数万CPS程度で飽 和するので,蛍光X線スペ クトルの測定前に,シヤッ ターを開けてどの程度の 蛍光X線が来ているかを 確認することが望ましい. あるいは,オシレーション スコープがあれば,アンプ の後の信号を測定して,信 号が飽和していないかど うかを確認すると良い.図 3に,蛍光X線収集の手順 を示す.

MAD法による構造解 析のためには,少なくとも 2波長,できれば3波長以 上を測定することが望ま しい.選択する波長は,異常分散差△f', △f"を最大にするような波長を選択する.3波長測定するの であれば,吸収端のわずかに高エネルギー側の蛍光X線スペクトルの強度が最大となる波長(peak) 蛍光X線スペクトルでの変曲点に相当する吸収端(edge),および吸収端から十分に離れたremote の波長を選択する.remoteの波長は,吸収端からできるだけ離した方が良いが,あまり離れすぎる と吸収効果の違いが無視できなくなってくるので,一般的には吸収端から100-300eV程度離れた波 長を選んでいるようである.筆者らは,もう少し離れた波長を(例えばセレンの場合0.9Å)を選択 している(特に積極的な意味はないが....).異常分散原子の種類によっては,蛍光X線スペク トル上で吸収端の高エネルギー側にwhite lineと呼ばれる鋭いピーク構造を示す場合がある(図4). 蛍光X線の強度は,△f'と比例関 係にあるので,white lineのピー クの波長を選択することにより, 大きな△f"の値が期待できる.も し可能であれば,この3つ以外 のいくつかの波長でもデータ収 集を行っておくと,より確から しい位相を求めることができる.

異常分散項の大きさは,入射 X線の波長分解能に依存するた め,1枚のモノクロメータを横 振りで利用しているBL-6A,BL 6Bに比べて,縦振りの2結晶モ ノクロメータを利用している BL-18Bの方が波長分解能が高く, 多波長異常分散法の実験に適して いる(2結晶モノクロメータのも う1つの利点は,出射位置がほと んど変わらないので,容易に波長 の変更ができる点である).BL6A で行った実験によれば,横方向の 人射スリットを閉めることにより 波長分解能を改善することができ る(図5).この場合,当然入射 X線強度は減少するが,実験によ っては,スリットの開口幅を調整 することは有効であろう.

1-2.データ収集条件設定 回折強度データの収集は,通常の条件と同じでも良いが,より精度良くBijvoet差を記録するこ とが望まれる.結晶の特定の軸に垂直なミラー面を持つ対称の場合には(単斜晶系以上),その軸 を回転軸としてデータ収集を行うと,同一フレーム上にBijvoet対を記録できるので,系統誤差を減 らし,より精度の高いBijvoett差を測定することができる.結晶のラウエ対称がミラー面を持たない 場合,ω゜のフレームを記録した後に続けてのω+180。のフレームを記録する方法(これはinversion settingと呼ばれている)を取ると,結晶のX線損傷や人射X線の強度が変化による系統誤差を減ら してBijvoet差を測定することができる.

高精度なデータ測定を行うためには,偶然誤差を小さくするように,少なくともmultiplicityが 4以上になるように振動範囲を広くすると良い.また,X線フォトン数の統計精度を良くするため に,X線損傷を受けない程度に露出時間を長くする方が良い結果が得られるようである. 多波長異常分散法のためのデータ収集といっても,筆者らは特に変わったデータ収集法を行うこ とはしていない.すなわち,ある波長での1セットを完全に撮った後,波長を変えて,次の1セッ トを撮るという方法である.この他に,X線の損傷が大きい結晶の場合には,数フレーム撮った後 に波長を変えて同じ振動範囲のフレームを収集していくという方法もある. 1つの波長のデータセットを完全に測定していく場合,どのような波長から測定していくと良い であろうか.筆者らは,まず,peakのデータ収集を行う.結晶がX線照射に対して安定であれば, このpeakのデータをできる限り高分解能かつ高精度に測定することを勧める. クライオ条件下でのデータ収集はX線損傷を大幅に低減することができるので,多波長異常分散 法の場合には,特に有効である.もし,クライオ条件が見つからない場合,結晶がある程度大きけ れば,データ収集中に結晶を並進させることにより,損傷を低減することができる. もし,ビームタイム(と実験者)に余裕があれば,データ収集後速やかに積分強度計算を行い, パターソン図まで計算することが望ましい.2-2で書くように,パターソン図の質を確認することに より,構造解析の成否をおおよそ知ることができる.もし,きれいなパターソン図が得られなけれ ば,(しかもビームタイムに余裕があれば)もう1度データ収集をやり直す方が良い.

2.構造解析

2・1.データ処理

データ処理で最も注意しなければいけない点は,いかにしてデータセット間のスケーリングによ る誤差を小さくするかということである.幸いにも,我々のこれまでの解析では,普通のisotropic あるいはanisotropic scalingでうまく行った例が多いが,分子量が大きい場合や,結晶の外形に異方 性がある場合には,ローカルスケーリングを適用した方が良いであろう.CCP4のプログラムscala2 は,referenceデータに対するローカルスケーリングなどのオプションが豊富であり,ほとんどの処 理は,これを用いて行っている.

2-2.パターソン図の解釈

筆者らのこれまでの経験では,パターソン図が解釈できるようなデータが得られれば,ほぼ100% 構造解析は成功すると考えている.問題は,あまりデータの質が良くない場合,そのパターソン図 が解釈できるかどうかがはっきりせず,また,場合によってはいくつもの解の可能性が生じてしま うことがある.一例として,図6に,パターソン図の例を示す.図6・1のようなパターソン図が得 られれば,誰もが構造解析の成功を確信するであろう.しかし,図6・2のようなパターソン図が得 られた場合はどうであろうか.

現実のデータでは図6-2のよ うなパターソンが得られる場合 が多いであろう(最近のデータ 収集システムの進歩によりデー タの質が格段に良くなってきて いて,図6-1の様なパターソン もしばしば見られるようになっ てきたが).筆者の経験では, 図6-2のように明瞭な自己ベク トルピークが得られない(ある いはもっと汚い)パターソン図 からも十分に良好な電子密度図 が得られることが多いようであ る.一番の問題は,あまりきれ いではないパターソン図が得ら れたときに,偽の解を求めてし まうことである.SHELX‐973や RSPS(CCP4のプログラムのl つ)は,パターソン図の解釈を 行うときに非常に有効である.

2-3.位相決定

多波長異常分散法による位 相決定には,大きく分けて,従 来の重原子同形置換法のプログ ラムを利用する方法と多波長異 常分散法のために作製されたプ ログラムを利用する方法の2つ が考えられる.後者のものとし ては,Karleの取り扱いから導か れるHendricksonによる方法が良 く知られている.この方法は, 異常分散原子が一種類のときに 導かれる次の関係式を利用する.

あらかじめ,a(λ), b(λ), c(λ)が与えられれば(これは,計算値あるいは蛍光スペクトルから計算さ れた実測値を用いる),実測の|λF(±h)|を用いて,|0Fγ|, |0FA|, (0φγ-0φA)を変数とした方程式が立て られ,この方程式を最も満足するような|0Fγ|, |0FA|,(0φγ-0φA)を最小自乗法で求める.さらに,重原 子パラメータから,|0FA|exp(i0φA)を求めることができるので(重原子パラメータは,先の式を用いて 求められたI。FAlの値を最も満足するような値を最小自乗法で求めておく),これにより,求めたい 位相09Aが得られることになる.この方法は,多波長異常分散法における構造因子の関係を厳密に 取り扱っているため,異常分散効果が大きい場合には,後で述べる重原子同形置換法の取り扱いで は正確な位相角を求めることができないのに対して,より精度の高い位相が得られることができる. この位相決定はHendricksonらによりMADSYSシステム4としてパッケージ化されている.

一方,従来からの重原子同形置換法のプログラムを適用する方法も,広く利用されている.この 方法は,プログラムの利用に関してこれまでの経験を生かすことができるという点だけではなく, ある指数の反射が1波長データしかない場合でも,Bijvoet差が観測されていれば,位相決定を行う ことができる点にある.これに対して,MADSYSでは,各反射について3波長以上のデータがそろ っていないと位相決定を行うことができない.

重原子同形置換法のプログラムを利用する場合,どれか1つの波長のデータをネイティプデータ として取り扱って,その他のデータを重原子誘導体のように取り扱う.この時,回折強度データが あらかじめ絶対スケールに合わせてあれば(この時点ではWilson統計から得られた値を利用する), 重原子の占有率は,それぞれの波長における異常分散項の実数部(△f')の値とネイティブとして取 り扱う波長の△f'の値の差として考えればよい.後は,通常の同形置換法とまったく同様である.こ こでの間題は,どの波長のデータをネイティブとして取り扱うと良いかということである.これに 関しては,正解はない.通常は,EdgeあるいはRemoteをネイティブとして取り扱うことが多い. RemoteあるいはEdgeをネイティプとしない場合,Remote-Edgeの大きな波長間異常分散差を利用し ないことになり,異常分散差に対する誤差の割合が相対的に大きくなってしまう.Edgeをネイティ ブとして取り扱うと,波長間異常分散差がすべて正の値をとるので,直感的にわかりやすい.また, 従来からのすべての重原子同形置換法のプログラムではネイティプデータについての位相を求める のでCompletenessの高い方をネイティブとするべきである.また,X線損傷などによりE陣geと Remoteのデータの質が違う場含には,より精度の高い方をネイティプとするべきである.しかし, 従来からの重原子同形置換法のプログラムでは,どれか1つのデータを特別扱いしてしまう点(ネ イティプデータには誤差を含んでいないという仮定をしている)が一番の問題である.

これを解決する一つの解として,maximum likelihoodを利用した,SHARPというブログラムが, Eric de la FortelleとGerad Bricogneによって開発された5.筆者の経験では,このプログラムを用い ることにより非常に弱い異常分散シグナルから十分に良好な位相決定を行うことに成功している.

2-4.電子密度の解釈

電子密度図の解釈は,通常の構造解析 とまったく同様である.ただし,既にセ レンの位置がわかっているので,この位 置を手がかりにしてモデルの作製を行っ ていくと解釈が容易になり,しかも誤り を犯しにくい.また,最初の位相が得ら れたときに,メチオニンの電子密度(特 に側鎖)を見ることにより,その電子密 度の質を容易に判断することができる (図8).

3. 終わりに

セレノメチオニンを利用した多波長異常分散法と言っても,重原子同形置換法の場含とほとんど 同じように構造解析を進めることができる.むしろ,結晶の同形性が崩れていない分だけ解析は容 易であると言えるかもしれない.仮に多波長異常分散法での位相決定に成功しなかったとしても, セレノメチオニンのデータは,1つの重原子誘導体として利用することができるし,差フーリエな どで得られたセレンの位置モデル作製の時に貴重な情報となる. 大量発現系が確立したサンプルの場合は,重原子誘導体の調製と平行してセレノメチオニン置換 体の作製を進めていくというのが構造解析の早道につながっていくであろう. セレノメチオニン置換体を用いた多波長異常分散法による構造解析の研究は,田中勲教授を始めと する北海道大学大学院理学研究科高分子解析学第2のメンバーとの共同研究によるものです.また, データ収集に関しては,高エネルギー物理学研究所・放射光実験施設(現:物質構造科学研究所)の 坂部知平教授,渡辺信久博士に非常に多くの有益な御助言・御援助等を頂きました.この場を借りて,お礼申し上げます.

REFERENCES

  1. 多波長異常分散法に関しては,Methods in Enzymology vol.276 p.494-557(1997)に,セレノメチオニン化タンパク質の調製から位相決定まで詳しくまとめられているので,是非参考にしてください.
  2. CCP4に関しては,http://www.dl.ac.uk/CCP/main.htmlを参照してください.また, ftp://pfweis.kek.jp/mirror/ccp4にもミラーサイトがあります.
  3. SHELX-97に関しては,http://shelx.uni-ac.gwdg.de/SHELX/を参照してください.
  4. MADSYSに関しては,http://convex.hhmi.columbia.edu/hendw/madsys/madsys.html を参照してください.
  5. SHARPに関しては,http://lagrange.mrc-lmb.cam.ac.ukを参照してください.


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