構造生物 Vol.5 No.1
1999年4月発行

構造生物学への期待


村井朝夫

味の素株式会社中央研究所・分析研究部長

 以前、イタリアの観光旅行でヴァティカン博物館を訪れたとき、入り口から3階へ通じる階段を昇っていてこの階段が2重らせん構造になっていることに気づいた。下から昇る人と上から降りる人が同じ階段ホール空間の別々の階段を通り、お互いにぶつかり合わないように出来ているものであった。なるほど、上り口も下り口も5'末端から始まるのか、ワトソンやクリックはこの階段を上ったろうか、ポーリングは見ていないに違いないなどと妙な想像をしながら、生命の科学の進歩とそれか産業に及ぼす影響などに思いが及んだ。

 遺伝子の働きを始めとする細胞の活動全体を分子のふるまいとして理解しようとするところから起こった分子生物学は、ワトソンとクリックによるDNAの2重らせん構造の発見によって大きな扉が開かれ、それ以後の科学的進歩の結果として、医療や農業の革新、bio-ventureの隆盛、あるいは人間や社会を理解する思想にまで、社会のさまざまな分野に与えたインパクトは周知の通りである。構造生物学も分子生物学の展開のひとつの必然として生まれ出たものと理解できよう。現在という時代は、X線回折装置やNMRなどの最新の設備と技術により蛋白質のような巨大分子の構造解明が続々となされ、その結果細胞内での生命活動の営みの現場が次々に明らかにされる最中の、科学的興味からも非常に面白い時代ではないだろうか。それと同時に、これらの純粋な科学的成果が極めて速いスピードで産業界に移転されて、社会に影響を及ぼしている時代てもある。この意味からしても、産官学が一体となって先端的な研究を行う埋念のTARAの中のこの放射光プロジェクトは、まさに世の中が望んでいたことのひとつの形であると企業の研究の場に身を置く一人入として強く感じている。

 構造生物学的研究が始まってたかだか50年。この時問はビッグバンから現在までに至る宇宙の歴史を1年とおいた、いわゆるセーガンの宇宙カレンダーによれば1年の最後の0.1秒に過きない。人類の誕生が12月31日午後10時30分頃としても、ほんの一瞬の時間である(恐竜だって12月26日に生まれ4日間以上は生き延びた)。このような観点で見ると、自然を理解するという科学の中で、大きな流れを作りつつある構造生物学の進歩がもたらす恩恵は、他の分野において科学的な進歩がもたらした恩恵と同じように、次の0.1、2秒の内に、すなわち21世紀中には社会の極めてひろい範囲にわたっていると考えられる。それには産業界がその一翼を担って行くことになるのは確かであろう。構造生物学の成果としてすでに展開されている領域以外にも、企業の側がこれから手をつけて開拓できる領域がまだ多く残されていると考える。


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